私とカウンセリング 75

私とカウンセリング by 清原浩

必要に迫られてカウンセリング的かかわりをかれこれ25年いや30年ぐらいしてきただろうか。はじまりは、鹿児島大学に赴任してきたときから始まった。障害のある子どもと親の支援と教育委員会主催の就学時教育相談の相談員という仕事から始まった。いずれも、私の専門であった障害児教育から付随的に起こったことであった。したがって、はじめのうちはカウンセリングというよりは、まさに、育児相談を受ける、あるいは育児にかかわる助言をするといった姿勢であった。そんなときが4〜5年続いたように思う。そうこうするうちに、せっかくこうした機会が与えられているなら、しっかりとカウンセリング理論を自学自習し、技術的にも深めたものにしようといった意識が生まれた。また、これまた必要に迫られてカウンセリング講座なども福岡、延岡などでするようになり、一層カウンセリングについて考えるようになった。また、われらの鹿児島カウンセリング研究会の立ち上げと勉強会の継続も私の力を鍛えてくれた。

そんな中で、最近、やっと、何かがみえてきたように感じるようになった。それは、今まで言われてきたことであり、皆さんはずっと前から気づいていたことかも知れないが、あらためて、その何かについて書いてみたい。まず、何だかんだと言っても、カウンセリング、あるいは心理療法は人を変えようとする営みと言うことである。人を変えようとするのは尊大な営みであり、人ができることではないようにも感じる。

しかし、それはこの際、脇におくとして、問題は人をどのように変えようとしているのか(方向)、またどのようなやり方(方法)をしているのか、人間の本質をどうとらえているのかによって、カウンセリングや心理療法の理論や方法技術が別かれてくる。そして、わたしは、人間の本質は、最も単純化していうと、認められたい、承認されたい、尊重されたいというところにあるように思われる。したがって、それに反する方向での支援は、つまり、指示、助言、提案的な支援は、確かに本人がそれを求めているときは成功するときがあるとは思うけれど、基本的にはその人の反撃、抵抗を招き、その人を変えることは到底できないと思われる。人は、認められたとき、承認されたとき、尊重されたとき、やっと心を開くと思う。心を開かずして、自分を変える難事業に取り組む力は湧いてこないと思われる。カウンセリングと言う世界を私はそんなふうに、考えるようになった。

以上のことから派生してくることとして、カウンセリング場面は議論の場ではなく、来談者を認め、承認し、尊重する場であることに徹しなければならないと考える。議論の場とは、来談者の言っていることに反論したり、カウンセラーの意見を述べる場として考えている場合をいう。議論の場になると、勝ち負けが明確になり、負けた人は、勇気や元気がもてないであろう。カウンセリングの世界では、勝ち負けがあってはならないのだ。といって、もちろん来談者にこびることではない。来談者を深く、正確に、共感的に理解できれば、議論などが必要でなくなるのだ。もちろん、来談者の話を正確に理解したことを示す言葉は必要で、それなりの言葉のやり取りはある。

以上のような、カウンセリングの結果、来談者は、カウンセラーに意見を言われて気づくのではなく、対話の中で、自分で自分の答を探し当てるようになる。あるいは、それほど深く、じっくりと話せたと言うことでもある。

まあ、こんなふうな信念、それは既に言われていることかも知れないが、改めて、自分の言葉で、言えるようになったのが最近である。