私とカウンセリング by 江田照美
大学の心理学の学部に入学したのは、2002年の4月。「心理学を手繰り、人を支えるカウンセラー」に、山ほど憧れてずっと過ごしてまいりました。しかし、いくら時間を重ねても、その目的から離れるばかりの自分の現実を知り落ち込んで行くばかりです。教育分析を切っ掛けに、クライアントとしての回帰感情へのシフトを何度か経験する中で、今まで「何で、なんで?」の山盛りだった事々が、少しずつジグソーパズルのように組み合わされていきます。そんな中「人は人同士心から絶対に理解しあえる」と信じたかった私は、やっと最近、同じに感じ同感情を持つことはできないことを許可できるようになりました。そして、互いに「感じようと努力する」ことしか出来ない、という事を改めて納得できるようになりました。また、良く言われることではありますが「クライアントに起きた不都合への答えは、既にそのクライアント本人の中にある」事を感じ始めました。それに加えて思ったことは、万人において、体験する全ての出来事はその本人に必要で起こるべくして起こっているのではないかということです。
では、何のためにカウンセラーはいるのか?それを受けとめられるだけの力を持ちながら、何かの切っ掛けで、その瞬間、自信を失いかけているクライアント本人に、解決の力を持っていることを気付いて貰うためにいる。そんな風に考えないと、存在の価値を見失いそうになります。しかし、そのためには用心深く砕身の配慮を行いながら、その一部始終を返して行かねばならない聴く側のあり方を思い、その困難さに縮み上がるような気持ちになります。
以前は、悩める人とのカウンセリングの後は、さぞ爽快なことだろうと考えていたのですが、例えばセッションの後の「よい」気分どころか、相手の思いをほんとに受容、共感できているのか、自分が喋り過ぎたのではないかという不快感に、希薄なカウンセリング経験の中さいなまれます。逆に、その後、聴く以前より、クライアントの苦しみをほんとに感じ、理解し対応できたのか・・・、しんどい思いをすることを感じ始めました。カウンセリングは、クライアントのものであり、その時の気分はその本人にしかわかることができず「カウンセラーのためでなくクライアントのためにある」という国重さんの本の内容に深く頷くことでした。
そんな風に考えるようになった今、憧れだけでは済まないカウンセラーという仕事に後ずさりの「強い感」を覚えつつも、疾患末期の痛みに耐えかね「殺してくれ」と訴えた患者さまのいた臨床に、帰りたいと思うようになりました。しかし、その機会さえも、私の未来に「ある」ことなのか、与えられる可能性があるものなのかも分からないのですが。