私とカウンセリング(51)by 那須

カウンセラーの悩み
死なれること。一年余の入院治療を終えて自宅生活が始まった一週間後に自殺された。病気自体の苦しみがある上に、家庭に解決が難しい問題を抱えていることは人生生きる望みをそぐことはある。それを支えようにも非力であった。
病状悪化により病院を移る時、母親に一晩でいいから自宅で過ごさせて欲しいと懇願された。自宅では難しいだろうことは話しても、我が子のいとおしさを話す母親の前には押されてしまった。その夜、母親は転院途中の息子を殺害した。
カウンセラーにとってカウンセリーに死なれることは失敗を意味する。立つ瀬もなくしてしまう。もしかして死なれることも少しは予想できている。しかし、非力故にそれを止められない。
周囲に振り回されること。カウンセリングは本来スタッフの仕事であると考えている。日本の社会はライン(タテ社会)が強くてスタッフだけでカウンセリングを行うことは難しい。理想を言えばラインがカウンセリング・マインドを持てばよいのだが。スタッフとして行う途中にラインからの要望の提起や成果の報告が求められたら、優秀であるべきカウンセラーはそれに忠実に答えなければならない。ラインや組織の論理が優先し、カウンセリーの利益はまげられてしまう。
カウンセリーに利用されてしまうこと。様々の悩みを抱えている人たちに幾らかでも手助けができたらよいと感じている。カウンセラーはそのために全力を投じて問題解決や生きる支えを作ろうとしている。その精神は尊いことだと感じている。だが反面、その行為は人間が求めるわがままな行為に対する免罪符の乱発にもつながっている。人間は逃げ場が欲しい。悩みは逃げ場を探している。悩む者はカウンセラーに相談し、免罪符をもらって、さらに愚行に落ち込んでしまう。
人間にも社会にもひずみは存在する。いい薬だと思っても副作用がある。よいカウンセリングをしたと考えていても、結果全てがいいことずくめではない。これは宗教が社会の中に多くのひずみを作りだしながら、矢張り大切だと言われることに似ている。薬効とその副作用を区別するのも難しい。