清原浩著「不登校児はいない」を読んで
早速この本を読んでみました。私が学校臨床から体験として得ている感覚とかなり近い部分がありました。それらの点について思いつくままに書いてみたいと思います。
当初「学校恐怖症」「登校拒否」と読んでいた現象を「不登校児」を言い換えることによって、言葉で表現される現象と実体をより正確なものとしようとしてきました。だが、実体的な現象が変化しているわけでもないので、結局「不登校」などの枠組みでで考えることの限界をそろそろ考えていく必要があります。そこで、「不登校児はいない」と断言してしまった方が、この現象を確認する上でより認知しやすくなると感じました。
そもそも、ニュージーランドには「不登校児」はいません。昔ながらに「ずる休み」や「無断欠席」するような生徒はいます。もしかしたら少なくないのかもしれません。しかし、「不登校児」という言葉で含蓄されるのように子供たちやその家族が見なされることはありません。英語でフォーマルにはTruancyといいますが、口語では実に多彩にあります。それほど、学校にまともに来ないという現象は、どの社会にも在ると見えますが、日本の「不登校」の意味はもっと重く、絶望感さえ伝わってきます。
日本でも、「ずる休み」が社会の中に存在できていた時代もありました。鹿児島では「山学校」という言葉があります。この山学校(学校をサボって裏山にあそびに行くこと)に「登校」した経験者(男性に多いのですが)に聞くと、口をそろえて「あれは楽しかった」と言います。私も高校時代には、ソフトテニス部に所属していて、隣のクラスが休校になると、テニス部員が誘いに来ます。試合をする4人に一人足りないから来ないかと! そこで、私は迷いながらも行っていました。一度覚えているのですが、テニスした後、気分上々の面持ちで教室に戻ろうとしたとき、私がずる休みをした教科を担当した教師とばったり顔を合わすわけです。その教師は「身体は大丈夫ですか?」と言うやいなや、私の汗だらけの様子をみて悟ります。どこかで遊んでいたのであると、、、そのときに、「ああ」と言ったきり、職員室に戻っていきました。何のおとがめも無かったことを今でも覚えています。
スクール・カウンセラーとして勤務し始めて5年目に入りましたが、その間それなりの数の学校へ来ていない子供たちと関わってきました。そのような子供としばらく付き合っていくと、かなりの確率で社会生活に復帰できています。この確率は高いです。
私の臨床の背景にある体験は依存症です。依存症のための自助グループとしてAAがあります。アルコール依存症のための自助グループですが、「断酒」を目的としていません。つまり、「断酒」さえできれば良いという考え方には大きな落とし穴が有るからです。そのため、AAでは「飲まないで生きる生き方(ソブリエティ)」の質を問題とします。
学校に来ない子供の支援をするに当たって、「登校」を目的としないという姿勢の大切さと不登校という言葉に逆に縛られている自分について、この本を通じて考えてみることが大切であると感じます。人によっては、自分の価値観や判断基準を根底から揺すぶられることになるかもしれませんが、不登校状態にある子供とその家族を支援するためには、それは必要なことであると考えています。