私とカウンセリング by 堂原洋子
勤務校で学生相談を担当しているが、最近は授業コマ数が学生の授業数より多いような状況が続き、学生相談を忘れかけていました。前期も似たような状況にありながらもなんとか必要に迫られて学生相談室や自分の研究室で細々とやっていました。授業と学生相談の兼任の難しさ、大変さを思い知らされる日々です。学生の心の相談に関する科目として「発達障害」や「カウンセリング」について講義しているが、授業後若い学生達は悩みを沢山抱えているとか私も発達障害じゃないかとか、話を聴いて欲しいということをいろいろな形で伝えてきます。本当は相談にのらなければいけないのだが、全くゆとりがなく後ろ髪を引かれる思いで日々を送っている今日この頃です。学生達に申し訳ない気持ちと責任を果たせていないような気持ちがいり混ざり、何とも悶々とした気持ちを抱えていて私がカウンセリングを受けたいような気持ちでいます。しかし、カウンセラー自身にゆとりがないといいカウンセリングはできないと思っていますので、じっと「我慢の子」でバタバタしながら新年度を待っている状態です。
さて、学生たちにカウンセリングの理論(主にロジャーズ)を教えたり、カウンセリングのスキルを教えたりすると多くの学生が、「カウンセリングは奥が深いとか、ただClを励ましたりすればいいかと思っていたがやってみるとなかなか難しいものだ」と口を揃えていいます。私もいつもそう思いますので、もう一度奥深さに触れてみたいと思います。
【クライエント中心療法におけるカウンセラーの「態度」条件について】
①無条件な肯定的配慮(思いやり=unconditional positive regard)=受容
CoのClに対する無条件の尊重。「もし、こうであれば」「このテンについては」といったClに対して条件つきの思いやりや受け入れ態度でない。Clのありのままの全人格をありのままに肯定・受容する態度。人間性そのものに対する根本的尊重である。実践的には、Coが自分の心の中に「空間」を作り、その「空間」の中を、あたかもClに自由に漂ってもらうことができるような、そんな心理的態度のことをいう。
②Clの内面世界の共感的理解(empathic understanding)=共感
Clの私的な世界を、微妙なニュアンスに至るまであたかもCl自身であるかのように、感じとり、そこで感じたことを丁寧に相手に伝えていく。ここで重要なのは「あたかも」という性質を見失わないようにすることであり、これを見失うとClとの間に必要な心理的距離を失い、相手を受け止められなくなってしまうことがある。
他人の閉ざされた近くの世界に入ってそれに十分に精通することである。それは他の人の内面に刻々と流れ変化し続けている意味合い(feltmeaning)や恐れ、怒り、優しさ、迷いといった事柄について一瞬たりとも怠ることなく敏感に注意を払うことを言う。一時的に他人の生き方の中に入ってみるのであるが、よしあしは控える。
③カウンセラーの自己一致(congruence)=純粋性
「透明性」ともいえるもので、自己のうちに流れる感情や思考といった即時的経験に対してCoが防御的にならずにオープンである態度をいう(驚いたり、悲しんだり、・・・)。はっきり伝わってくることと、曖昧に伝わってくることを区別できる。それをことばにしてClに返すことができる。クライエント中心療法においては、一方で自分の心を無にして相手を受け入れていく姿勢が求められるが、もう一方では同時に、自分の内側で相手に対して生じてくる実感をしっかりと問い確かめ、それを味わい暖めておくような姿勢が求められる。
(テキスト「子どもの心理臨床」からの要約抜粋)