先日、清原先生の退官記念講演(最終講義)と祝賀会に参席させて頂きました。『私の人生』と題された講義も興味深くまだ、知らない先生の顔を見せて頂きました。祝賀会は、とても素晴らしい方々の集まりで、本当に楽しい会でした。先生は、エンカウンターの実践者でたくさんのファシリテーターを育てておられることを痛感しました。そこで、私が講演と祝賀会で印象に残った感想などを交えて、「私とカウンセリング」を紹介したいと思います。
先生とのお付き合いは、この研究会からのスタートで約4年、最初のKCSの資料を引っ張り出して確認してみると、2003年6月からの出席でした。この4年間の足跡をたどってみたいと思います。
最初の印象は、とっても穏やかで、おやさしそうだな~・・・それでいて、時折、先生の眼差しが鋭く、自分が萎縮していることもありました。目が笑っていない感じで(「先生、目が笑ってないよ~、怖いよ~」)と時々心で訴えていたりして・・・今、思うと私が勝手に先生像を作り上げて(自分の劣等感からくるもので)恐れ慄いていた事に気づかされました。
そういった最初の印象から、ロジャースの文献、ケーススタディ、障害児治療教育聴講、飲み会等を経て、この4年間の間に先生に対する受け取り方が変わってきました。先生が時々垣間見せる、しぐさや言葉のニュアンスで実は「ホッ」とさせられました。そこに、人間としての安らぎを感じさせられました。上手く表現できないのが残念ですが、「私も人間ですよ」と優しく囁かれているように感じます。そして、私を「これでいいのだ」と思わせてくれます。それがまず、私が先生から学んだ「人としての質」だと感じさせられました。私にとっての「脱、大学教授」になりました。
そうそう、勉強会でも、講演でも先生は喧嘩ができないとおっしゃていましたけど先生の眼球のするどさ(目力)が周囲を恐れ慄かせて、喧嘩を防いでいるんだと私は考えています。ある意味、本人も気づかない見えないシールドですよね。つまり、先生の信念が・・強さとなって、災いを撥ね退けていたるんでしょうね。すみません、失礼だとおもいながら勝手に解釈しています。これは、あくまでも私の受け取りであって、先生のリアリティとは全く違うものです。・・・ので、私の独り言だと思って勘弁してください。
また、講義ではむぎのめ学会設立のところで「やり方ではなく、あり方」について触れておられました。この時、私はドキッとしました。「そうなんだよ・・・やり方はもちろん大切なんだけど、まず、そこに在ること」なんだな~・・ついつい日常の流れの中で見落としてしまいそうな私の欠点。いつのまにか、自分があり方よりもやり方重視になっていたりして、「ハッ」とする瞬間でした。いけない、いけない「フンドシ履いてないけど・・締めなおさなきゃ」って感じです。
さらに、衝撃的な発想でしたが死を考えることの積極的な意味として先生は「薔薇色の死」と表現しておられました。思っていてもこんなことをどうどうと言える先生って凄いと感じました。
そして、まだ到底、到達できない私ですがいつか「死」を「薔薇色」と堂々といいたいな~と思いました。ただ私も死ぬときは、あるがままに生きた自分に「よくやった!」といいたいのが理想です。
レジュメの終わりには、心理的支援を「それは治すことではなく、日々の苦しみをわかち持つこと。そして自らが動き始められるよう援助すること。」とおしゃっておられました。まさに有機的な「あり方」そのものなのだと感じました。感動。そして、同感。
最後に講演のテーマの副題として「~出会いの機会を頂いた人、すべての方が私の師~」とありました。その姿勢に感動します。そして、学ばされます。
・・・カウンセリングをしていると私自身がクライエントに何らかの示唆を与えて頂く事がよくあります。また、私自身が常に育てられているように感じていますが、そういった基本的な姿勢を見失うことなく今後の私のあり方に繋げて行きたいです。そしてこれからも、先生や勉強会の皆さんからたくさんを学ばさせて頂こうと思っています。そして、微弱ながら私ができる範囲で社会に貢献していこうと考えています。
この機会を頂いたことに深く感謝して締めくくります。