私とカウンセリング by 国重浩一
今回は、「現実感」ということで、少し考えてみました。
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現実感について、いろいろと考えています。
目の前に起きたことをそれが現実のものであると、どのようにして、私たちは認識するのでしょうか?たとえば、宝くじが当たったとき(当たったこと無いの ですが)、最初は、それが現実のものとは信じられないという気持ちが起こると 思います。
私は、家族がニュージーランドにいるので、時々海外に行きますが、頭の中で は、目の前の光景が南半球のものであると「知っています」が、何か現実感が持てない時があります。それは、飛行機という手段を用いれば、10時間ぐらいで、ニュージーランドに到着してしまいますので、現実感が時々曖昧なものとなるのではないかとも考えたりしたことがありました。
今回の東日本大震災で、地震や津波の被害を受けたことを、被災者は「知っています」、この事実を受け入れていないと言うことではないのだと思います。ところが、それが「現実」のものであるとする「現実感」が少し曖昧な感覚が持続しているような話を何回か聞きました。
普段の生活に戻りつつあるときに、たとえば仕事をしているときなど、自分の家が無くなってしまったことは、脇に置いておけるのだと思います。このようなことだけでなく、失ったものに対して、今ひとつ現実感が持てない気持ちがあるよ うです。
それは、実はカウンセラーである私にも生じています。被災地の様子、つまり地震と津波による被害を目のあたりにしました。気仙沼市、南三陸町、石巻市、大船渡市、陸前高田市など、おそらく皆さんも耳にしたことがある場所に行ってみました。その被害を表現すれば、どのように表現すればいいのか分からないぐらいものです。津波被害の大きさに、自然が持つ力の大きさに驚愕するのみです。
しかし、その「現実感」が少し曖昧な状態にあるのです。被災の規模、無くなった人の数、地震や津波の経験などの話を直接聞きました。その話によって、私自身がどの程度影響を受けてしまうのだろうかと、関心もあり、不安もありました。ところが、この現実感の曖昧さのために、ある程度の冷静さを確保できていると感じています。
どのような姿勢で、クライアントと接するかについては、難しい問題です。このような被災状況の折に、「大変でしたね」「つらかったでしょうね」というねぎらいの言葉や、クライアントの震災の影響の話(家の流失、肉親や友人の喪失)について、感受性を最大限に発揮して聞いていくことも可能でしょう。
しかし、たとえば、そのような話に対して涙を流したり、嗚咽を漏らしたりすることは、現時点では、相手の状態に共感している状態ではない可能性もあると感じています。つまり、相手も「現実感の曖昧さ」ゆえに、起こったことを比較的淡々と話をしている心境である可能性があるので、こちらも、そのように聞いてあげる必要があるのではないかということです。ですので、先ほど話したように、自分に生じている「現実感の曖昧さ」を、共有することによって、共感する姿勢を維持することの方が、相手の状態に沿った姿勢であると考えているところです。
将来的には、私の感情的な反応がより強くなるかもしれませんが、現時点の対応としては、今の自分の状態を良しとしておきたいと、判断しています。それ故に、子どもたちにも、教員たちにも、大人にも、起こったことを聞く一方で、ある程度の気軽な会話も維持できる状態にあります。
被災した人たちは、少しずつ自分の失ったことを実感できるかもしれません。また、それには人によって、さまざまな時間軸の中で起こることなのかもしれません。どのような過程を経るにしても、「大部分の人」が、自分の必要なことを乗り越えていく可能性があると、今感じているところです。
ある程度の割合の人たちは、PTSDといわれるような状態に移行してしまう可能性を念頭に置いておく必要はあるのでしょうが、多くの人は、乗り越える可能性が十分にあると言うことを、感じておくことが、緊急派遣カウンセラーとして継続するに当たって重要なことになるのではないかとも、考えているところです。